岩屋城(三輪城) 丹波市

岩屋城(三輪城・石龕寺城?)は「丹波志(寛政年中(1789-1801)」や其れに準拠する?「氷上郡誌(昭和47年)」に岩屋古城とし、建武3年(1336)と正平6年(観応2年 1351)足利尊氏・義詮父子が石龕寺に遁れたとされるのが岩屋山山上の岩屋城(三輪城)のように記されるが、修験の道場として栄え、石龕寺の山号となっている岩屋山石龕寺の”奥ノ院”山中に在る多くの
石龕寺本坊(向かいに奥の院からの大槽谷が落ち込む)
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僧坊塔頭を城郭化した岩屋城(石龕寺城)とし、中世戦乱の天正期:最後の城主?(守将)広沢綱忠が拠った岩屋城(三輪城)は別城と解釈する…!!?。岩屋山は山南町久下地区(栗作荘)・小川地区・和田地区(井原荘)・氷上町福田・佐野(沼貫荘)…に跨がる国境にあり新屋荘の大新屋を城下町とした現:高見山城(古城主は仁木頼章とされる)に繋がる尾根筋にある。
 頭光嶽城・岩屋城間に土橋付堀切がある
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頼章の旧城下は佐野にあり嘉暦2年(1327)築城:佐野城と呼ばれるが所在不詳?。佐野からの尾根ピークには高見城間の深い谷を挟んで向かい合う馬背山城(仮称)が佐野城!!…かと思える?。因みに高見城から馬背山城を北へ延びる尾根は萱刈坂を経て末端の穂壷城まで、加古川を挟む氷上盆地と新屋荘・柏原荘を分ける尾根上の泉山城は仁木頼章の弟:義長の居城。馬背山城からは氷上回廊を眼下に・
 北谷参道(廃道?)奥の院下部から展望所?と岩屋山
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加古川を挟んで何かと因縁の弘浪山高山寺城に対峙して幾度か合戦場となり南朝・北朝が立籠っており頼章も高山寺城に居た。仁木頼章が丹波守護に就いたのは建武3年(1336)。高山寺城に拠る頼章が佐野城を再建(1339年改修)して移っている。頼章の守護代であった荻野朝忠(赤井姓から荻野姓を名乗った荻野氏の祖!?)だが1345年には南朝に走り児島高徳と高山寺城に籠もっている。
  金屋鉱山跡(岩屋城南の断崖下部残置の重機類)
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ところで観応2年(1351)のはじめ足利尊氏が石龕寺に入った時の丹波守護は山名時氏。岩屋城(三輪城)が既に築城されていたか?、南北朝攻防に・立ち位置が目まぐるしく代わるなか高山寺城より播磨側監視を重視しての岩屋城築城するほど仁木氏に余裕があったかは疑問?。頼章が再び守護となるのは此の年の夏?。
  岩屋城主郭からⅢ本目の堀切(一般登山ルート)
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南朝の但馬山名氏や葛野荘(氷上町新庄)の本庄氏ら丹波の南朝方が幾度も籠もる弘浪山の高山寺城の動向監視なら岩屋城より佐野城(現:高見城か馬背山城(仮称)が適地。南面からは天険だが北面からの攻撃は比較的楽なのも気掛かり。丹波守護としては播磨口の監視も重要だが?。
岩屋城主郭からⅡ本目の堀切(岩屋城側に石積(採石か切出し材搬出用施設か?
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初期の築城時期や城主等は不明だが天正7年(1579)明智光秀「丹波攻略」の際:黒井城荻野直正配下の守将!?広沢行綱(綱忠? :人物像不詳!?)の時落城するが、高見城支城として岩屋城は南方攻防守備に充る前衛の砦群の一。三木城包囲中の播磨から秀吉の援軍:丹羽長秀等により石龕寺は焼亡するが岩屋城攻防の史実は守将:広沢綱忠の動向含め一切不詳!?。
 岩屋城主郭からの東尾根最初のⅠ本目の堀切
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播磨口最前線守備の久下氏玉巻城へは”氷上城(霧山城)の波多野宗貞”(実在した人物か?の子)や江田行範(綾部城主?)等が立籠もった…と云う。現:岩屋城(三輪城)は石戸山城へ続く北方尾根上に遺る曲輪(削平地)と三本の堀切以外、尾根筋左右には曲輪痕跡を見ない程の激急斜面。狭い山頂主郭の小曲輪群に反比例する大堀切の存在からは石戸山城が東曲輪(栗作荘の玉巻城へ尾根続き)、
 鉱山跡の断崖を目前にして建つ白山権現社(岩屋城主郭)
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城域が空中に消滅している南尾根(鉱山跡)を経て続く頭光嶽城が南曲輪(石龕寺城<奥の院>将軍屋敷からの詰城!?)で、井原荘で石龕寺領でもあった岩屋境の尾根先にある播磨境最南端の尾根先には井原城館<仮称>がある。NHK大河ドラマ「太平記」放映が期となった足利尊氏石龕寺詣を再現の“武者行列”は登山口の日吉神社をスタートしていた長年のイベントも一昨昨年を最後に廃止された。

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