高山城 Ⅱ(再訪2) 篠山市真南条上

高山城Ⅰ(再訪1)からの続き…織田信長の天下布武令により天正3年(1575)に始まった「丹波国攻略」は第一次黒井城攻めの敗因に八上城:波多野氏謀反と、明智光秀軍の多紀郡八上城攻撃が始まると八上周辺の支城は一つ一つ攻め落としていく。高山城も天正7年(1579)に落城したとされますが、八上城を直ぐ近くに控えた高山城が此処まで明智の大軍に抵抗しながら残ってきたとは考えられない。
   二村神社参道(R372近く)から高山城
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河村大明神の例祭日は8月21日。八上城も天正7年8月落城なので高山城主河村氏は八上城に籠城して最後を迎えたのかもしれません。高山城への初登城は公民館西約50m程にある民家と倉庫の間から藪地の奥に続く参道を尾根に出て中程の平坦段(曲輪群)?に着いたが、今回は地区道を更に西へ60m程:民家の手前から(直上する墓地からも同じか?)斜上する大手口か?。
  主郭虎口と土橋付き堀切からの東枝尾根側二段曲輪!
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取付の竪堀状堀底道?を抜け・土塁虎口上の西先端曲輪に入る。山上主曲輪同等の城域を持つ高山城の下城か居館跡か!?の広い単郭主曲輪奧にも土塁虎口に続く小曲輪群を抜けると、当初に取付いた民家間からの参道?から屈曲して上部に通じる虎口部を西先端曲輪(居館?)直ぐ上部の(緩衝帯の様な幅広く長い)尾根上に出る。段差のない?中央郭が延び、竪堀状(山道?)を伝い主郭北斜面にある城域内唯一!?の土橋付き堀切に着く。
  主郭北虎口部切岸と土橋付堀切と倒壊した河村稲荷二ノ鳥居
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堀切を挟むように二基の赤い鳥居と石垣が残る小祠も祀ってあった筈なのだが!?。主曲輪に向かう前に東枝尾根の先に二段曲輪?があり、龍蔵寺川沿いの道を眼下に望む位置だが龍蔵寺への参道往来監視の必要性に疑問?も。堀切から主郭に入る切岸下から食違い状に交差する虎口からは幅20mx南北50m程の細長い山頂の主郭が拡がり、平成4年(1992)頃までは此処に嘉高公を祀る「河村大明神」祠が建てられていたが、祠は壊され屋根瓦やブリキ製の屋根の一部が残置されていた。
  西郭(居館?):主郭間「中郭」中程北東の虎口
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「高山城趾」石碑が立てられている。曲輪南端には土塁と西南側下に小テラスが、石碑西背後には竪堀状の凹角を見る。竪堀状側西南の枝尾根筋には幅15m・長さ20m程の2段曲輪があり西面麓の二村神社や二村神社参道を挟む正面比高2-30mの岡崎山砦(高山城Ⅲで紹介予定)を中央にして西に館山城がある。(城主:江原左馬之助と伝えるが河村氏一族か?)との連絡・通信の曲輪か?。
  登城口の西郭の虎口・小曲輪群付近(だったかな!?)
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主郭南端土塁近くから南西へ降る荒れた枝尾根にも小曲輪段?をみて池側の畑地に降りるが、直接主郭に通じる尾根筋だけに搦め手道と呼ぶには…?。以前に比べ大分に下草が覆い始めている。朽ちかけた鳥居・祠もなくなった主郭は訪れる人もいない。立派な城址碑だけが建つ城跡もやがて人知れず藪中に埋没して忘れられていくのでしょうか…。

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