高山城Ⅲ 岡崎山砦 篠山市真南条上

高山城 Ⅰ(再訪1)で:ちょっと触れた龍蔵寺合戦…だが、史実を伝える古文書等資料は少なく未調査、合戦の全容を知るべくもなく!!?)の舞台となった龍蔵寺城は此の高山城(真南条上城)であったと推察してレポートを続けます。地理的にも山岳修験道として集落を遠く離れた奥地の龍蔵寺からは、太平三山の一:愛宕山を越えて三田母子(もうし)へ通じる間道があった様だが?、
 円応寺前の車道が切れる東端から山手から稲荷社への参道を砦へ
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地元民の生活道路はあったのかも知れないが永沢寺へ繋がるルートは要害ではあっても・母子から先は要衝地とは思えず、往来監視の砦が龍蔵寺周辺に築かれていたとは思えない。R372号(デカンショ街道)を東へ2kmほど三田方面へは「小枕」交差点から美濃坂峠を母子へ・永沢寺を小野・千丈寺湖に至る県道49号(三田篠山線)が通じている。「小枕」交差点を北へ約2Kmに篠山城趾。
 枝尾根右手の参道沿いに2段曲輪
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美濃坂峠は小川芋銭が題材とした「丹波霧海(丹陰霧海)」の舞台ともされる!?。美濃坂峠からの摂丹境界尾根は近くに三国が嶽があり、母子から県道308号が三国が嶽南東山麓を北へ回り込むが、此処からの山越えの踏跡が篠山市殿町に抜ける。小谷城のある小多田へも通じるが八上城法光寺城に挟まれた山間の盆地は八上城前身の奥谷城城下町。
 山頂部二基の古墳の一に稲荷社を祀る
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小谷城も法光寺城も三好氏・内藤氏による八上城攻略の向城となったか…?。さて:R372(デカンショ街道)から龍蔵寺へ向かう交差点入口に近くに高山城(龍蔵寺城)があり、北方200m程:山裾に円応寺があり、其の東に北方から延び出す丘陵先端付近:南東先端角から山上部の稲荷社へ続く参道がある。山上部には二基の古墳の間…というか山頂部に稲荷社を祀る古墳を主曲輪として、
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其の前面(南下方)二手の枝尾根上に共に2-3段の曲輪を置くが段曲輪周囲に堀切や竪堀もな縄張りの砦がある。R372(デカンショ街道)を挟んで龍蔵寺へ向かう交差点と、右手の高山城(真南条上城・龍蔵寺城)を南正面に対峙する岡崎山砦の曲輪は全て南正面を望み、弘治3年(1557)頃と云う龍蔵寺合戦の際の三好長慶・松永久秀方の向城でしょう!。河村氏の城砦群には高山城・西の二村神社参道西に
   古墳Ⅱの左枝尾根(上1-2段曲輪)
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順手山砦(仮称)・その西に江原氏(河村氏・酒井氏とは同族か?)の館山城が、岡崎山砦の西方:願勝寺に背山にも河村氏の拠る足見寺(そっけんじ)城(真南条中)がある。三好勢の高山城攻撃の時には:押し寄せる三好勢の大軍との前哨戦前に…?、足見寺城を捨て高山城にはいったか?、直ぐ北西麓の初田酒井党や尾根伝いには宇土観音を経て井関氏の吹城・円心寺背後・谷沿い?には岩崎城へ抜け出て、
  古墳Ⅱの左枝尾根(下2段曲輪)
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ルート上の波多野氏傘下の近在領主・郷氏等と一足先に八上城に籠城したのかも?。しかし此の戦いに高山城(龍蔵寺城?)は落城・波多野氏の八上城も落とされ、永禄9年(1566年)波多野秀治が八上城を奪還するまでの10年間を多紀郡は三好氏が支配するところとなるが三好政権下の多紀郡状況は不詳。その後は波多野氏の八上城支城としての真南条城(高山城)を波多野氏家臣:土豪の河村紀伊守嘉高が改修して拠ったらしい…!!

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