豊林寺入口砦(仮称) 篠山市福井

雲部車塚古墳前の県道702号から、八上城:波多野秀治に仕え猛将”荒木鬼”と謳われた荒木氏綱の細工所城を望む西山麓「丹波細工所」交差点を左折し篠山川沿いに北進するR173号に入り・道なりを櫛岩窓神社に着く。兵庫丹波(丹波市・篠山市)唯一の延喜式名神大社で、「櫛岩窓」神号は日本中で此の一社だけ。
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本殿後方の宮山山上の磐座には天孫降臨の神話に関わる御祭神は皇居御門を守護する「櫛岩窓命・豊岩窓命・大宮姫命(三体の座像は国の重要指定文化財)」を祀る神奈備(ご神体山)で元来祠はなかったが、朝廷や領主の信仰も厚く中世大芋荘四十八ヶ村の総社として「丹波の国大芋の大宮」と称された。R173を挟んだ向かいに玄渓山「豊林寺」の石標が立ち
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戦国時代:大芋(おくも)衆の山城案内の幟旗が立てられている。勿論此処からは北正面:篠山川を渡った所に小原の大銀杏・豊林寺城を示す道標が立つ。正面突当りの豊林寺背後:山上部に豊林寺城(大芋式部丞)が、右折する"小原の大銀杏"への川沿い地区道は福井城・福井居館(大芋衆の一:森本筑前守)に至る。
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直ぐ東方のR173「福井」交差点を挟んで東北の丘陵上には山上城(山上左衛門尉)がある。更に東へは南丹市園部に出てR9号に繋がる間道が通じており、篠山側境の市野々(市野々城<仮>)・立金に小谷城等が散存し当地土豪の大芋・森本・山上…氏等:大芋衆の城館があった。櫛岩窓神社の北方約700mにある玄渓山豊林寺(真言宗)は白雉2年(651)法道仙人の開基を伝え、元慶元年(877)には陽成天皇の勅願所になった伝承があり、
 豊林寺への車道脇の貯水池取水口:流水は左下民家をコの字に回込み丘陵南へ…
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教仙僧都が宝治年間(1247~49)七堂伽藍・天台寺院19僧坊を建て三岳修験道の一寺として栄えた。応永年間(1394~1428)頃には大芋式部丞が築城の豊林寺城があり代々:大芋氏の拠点となった所だが…割愛:今回の探索は”小原の大銀杏・豊林寺城”…案内板の西・東裾を貯水池に落とす低丘陵上です。豊林寺へ向かう小さな集落内の参道は左右の丘陵部に挟まれた
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幅約150m程の狭間部・しかも中央部には50m幅の貯水池があるが、取水口が西から南へではなく、民家を囲むように民家の北東から南へ・更に案内板の立つ車道分岐から西の丘陵南端へと流れ出す!!。幅狭い豊林寺谷入口を濠で堅める居館跡の様な民家がある!。西の低丘陵”豊林寺入口砦(仮称)”は南方の細工所方面から
   尾根筋一列に並ぶ小古墳の窪地は直葬(土壙墓)の盗掘穴跡か?
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篠山側沿いに軍・兵が侵攻してくる南正面を監視出来る砦として、他に監視適地がないだけに需要。南先端位置からは西方約700m位置に下篠見集落が望める。地区道は上篠見の篠見四十八滝へ通じるが「応仁の乱(応仁元年 1467)」に丹波守護代内藤元貞(細川勝元方)等は、主力を京都に招集されていた手薄を衝いて侵攻して来た山名宗全の軍勢に押され此処(村雲村篠見付近)で激戦となった村雲合戦合戦場跡で、
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細川方は全滅に近い大敗を喫している。大芋荘は南北朝から戦国時代まで絵所土佐家領の荘園として存続してきたが、久下氏や波多野氏等武家の押妨に曝された。此の大芋荘から起こった国人領主大芋氏は、丹波守護細川氏の被官として勢力を伸ばしてきたが村雲合戦に細川方として山名氏に抗したかは時代的に不詳。
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先述の通り豊林寺入口砦は豊林寺山城への大手登城口の守衛や、南方から福井から東へは京丹波町園部や水戸方面、北へは藤坂を本郷・草山方面やR173直進の板坂峠をR9号の井尻・橋爪方面へと、兵庫丹波・京都丹波境界に位置して要衝監視の任に当たったか!?。しかし現状は南北100m程の丘陵尾根筋に遺る小規模古墳群のマウンドを曲輪に使用したと思える程度。
   豊林寺入口城砦遺構下の大芋キッズツリーハウス
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北先端部は豊林寺から通じる堀切状山道が西方の民家側へ越えている程度。南端から西へ張出す枝尾根下方に2-3の小曲輪状?を見て木戸番や通行監視の砦であったか?…広くもなく尾根筋一列に並ぶ小古墳の窪地は土壙墓か?・殆ど盗掘穴跡か?、城砦遺構と観るかは人により判断がわかれるのかも…。
              「丹波の荘園 細見末雄著」を参照

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