高山城 Ⅳ 順手山砦 篠山市真南条上

高山城の西麓に鎮まる二村神社へと・扁額の掛かる石鳥居から神社へと向かう参詣道の圃場を挟んで西正面に並ぶように、南北100m程・比高僅か20mもない低い林!?がある。其の低い林は山上に愛宕社?の祠を祀る神社の杜だった。此の低丘陵の西向うを塞ぐように館山城が聳え立つ。館山城は(城主:江原左馬之助と伝えるが河村氏一族か其の属城か?)、呼応する河村氏の足見寺城・高山城間の
  デカンショ街道二村神社入口正面の順手山砦(小丘)
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連絡・通信の砦か?。地区道を挟む南向かい斜面の崖状は現状:道路拡幅工事による「土取」か?…人工遺構!?が、山上部の土塁・空堀?・崖近くの祠東斜面にみる竪堀…等の様相からは崖も切岸!!?城遺構だとすると・低位置に平坦段だけの単郭城域は、丹波市の井中城(仮称)同様に、異形縄張りの最右翼級で特異なもの!!…。高山城(真南条上)・館山城(真南条中)・真南条下の氏神として祀られる
  丘陵上の祠は愛宕社か?
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二村神社の社務所横には以前塩掛の庭「丹波篠山五十三次」案内板が立てられていたのだが?。丹南町古市地区神内(現:見内)の式内社で「伊弉諾尊・伊弉冉尊」をお奉りする二尊神社がある。真南条上の高山城と真南条中の館山城に挟まれた入江の様な中央部奥に二村神社があり、其の手前に浮かぶ小島の様な丘が順手山砦(高山城の記事中程の画像を参照)は一度寄って状況確認したい…と思っていた。
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二城を結ぶ地区道に地蔵堂?と二基の石碑(郷土力士?と謡曲師か?)が建つ。北正面に足見寺城槙ヶ峰を望む位置。崖上の祠へは直ぐ西の民家前から参道が通じている。比高15m程・幅20mx東西に長さ約150mの独立超低丘陵北部1/3を神社(愛宕社か?)が占める杜だった…が取付き点から既に大手道!?。直ぐ上部で一折れするが番小屋でもあったか木戸曲輪?。
 祠背後の藪地西手前に、空堀状と低土塁(西下段に幅狭い帯曲輪!)
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一折れして直上する上り土塁状?から二段曲輪下段に入る虎口状・祠を含む北2段は境内として大きく改修されているようだが、祠背後から南方に延びる藪地の長い平坦地形の南半分を、コの字状の低土塁が囲み祠側東斜面には竪堀が…。低土塁南西面を幅狭いが帯曲輪(犬走り?)を回し、土塁西北端は短い空堀土塁状がある。
低土塁を廻す西面下の帯曲輪
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祠のある長い平坦地形(主郭 80m程?)の南端にも太土塁・4-5mの切岸下部に数段の小曲輪が、南西面は竹林だが高い段差で、荒れた曲輪内は家臣屋敷跡だったか?、小曲輪と竹林の間の踏跡から田の畦道にでて二村神社側の民家に延びている。高山城か館山城関連の河村一族の居館・家臣屋敷とも考えられる…。
 祠の東側斜面に竪堀…!
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氏子は今田町小野原から丹南の古市・大山・味間・真南条・西紀町の南河内や北河内と広い範囲に跨がっており、秋の例祭には各村からの氏子総代は回り持ちの当番制だったが、神内の名主は神社鎮座地ということで何時も一番上座に列し、次に各村の名主が座するのが決まりだった。
 主曲輪南端の土塁・切岸(3-4m)
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文明14年(1482)大所帯の村の名主ほど自分達は神内より多く負担をしているのに上座に座ることができない不満がつのり宮座争い口論の挙句、力ずくで…と神殿の扉を押し開き、御神像一体(伊弉冉尊)を持ち出したのが近郷にも剛の者と知られる真南条村の名主でした。神内の追っ手を振り切って御神像を持ち帰った真南条の名主は、その時宮の谷の二つの流れの合流点・塩掛の清流で御神像を浄め、
 二村神社の塩掛けの庭
 
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宮の谷奥にある 山の磐座に御神像を安置し祀っていた場所は「バンヤノマワリ」と呼ばれた。その由来を残す為・此処に塩掛を模した庭が造られた。奥の大きな石を磐座・散在する石は真南条の集落・白砂は谷の流れを表わしたものと云う。詳細!?は二村神社の塩掛の庭を参照してください。
 二村神社入口地区道交差点の西南上

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