光明寺合戦の舞台 滝野城

中国自動車道・滝野社インタからR175号線を北上し、闘龍灘の標識を見て左折。正面に五峰山が迫り、加古川に架かる橋を渡る左手には、川の流れが見えない程に川幅一杯に岩棚を敷き詰めた様な奇岩怪石の河原を望みます。加古川の奇勝・闘龍灘で「日本で一番早い鮎の解禁」でも知られるところですが、加古川を利用した舟運では一番の難所でした。此処は以前に紹介済・・・。
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今日はこの先・県道17号に出て左折・滝野駅の先で光明寺の標識を見て右折、直進する急坂道に向います。宅地を過ぎると狭い林道に入り終点が光明寺参道前の駐車場ですが、急坂を上ってきた分だけ加古川流域・播磨平野を望み、東方に鳴尾山・三草山等の城山や西光寺山の眺望絶佳。
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此処から舗装路の参道を本堂に向いますが物見遊山の心算だと一寸きつい急坂道ですよ。播磨高野と呼ばれる真言宗の光明寺は観応の擾乱に・足利尊氏と戦った弟・直義方の将・石塔頼房が此処に布陣した光明寺合戦の舞台で、本堂の裏手には矢盾や竹矢来のセッティン(足利尊氏がNHKでドラマ化された頃のものか?)が残る頼房の本陣跡。
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嘉吉の乱に滅亡した赤松家再興を成した赤松政則も三木から小野を経て、光明寺に着陣し此処から発進して山名氏と戦い垣屋孝知らを討ち取り大勝して、志方(加古川)城に陣を移している。其の後:赤松氏重の滝野城として三木合戦まで続いたとされますが、大永6年(1526)没の城主・阿江(阿閉か!!?)・・?佐兵重佐重氏の史蹟碑と城主と足利一族の霊標・二基の五輪塔が祀られる墓所が参道側に有った。赤松一族には政則の時の奉行人として阿閉(阿江!?)氏がいるのですが・・? 【城主名の二文字目が江の旧漢字と解釈したが間違いかも・?】

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