栗住野城 丹波市

丹波市氷上町と青垣町を境する丘陵尾根先付近に沼城があり、其の尾根先端が落ち込む所を県道7号が通る。北近畿豊岡自動車道(R483)が沼トンネルで北に抜け出た付近。田園地帯と西芦田に、丹波市では数少ない平城の栗住野城が在りました。
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県道7号線に「祖父祖父堂」の案内標識が出ており、標識指示に従って集落内に向かうと、地区公民館の前に立つ大きな石塔が首塚。此処に在った祖父祖父堂は、公民館建設に際し・宝林寺境内に移されています。「丹波志」には天正7年(1579)最後の城主栗住野(芦田)五郎左衛門治朝・小兵衛兄弟の時、但馬から遠阪峠を越えて黒井城攻略のため奥丹波へ侵攻してきた羽柴秀長の大軍によって、東芦田城と運命を共にして栗住野城も落城します。
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柏原八幡山に陣を置く明智光秀に呼び出され、調べられたが許されて村へ帰る途中、どうも其の様子がおかしいので暫く隠れ住んだという山中に「左衛門畑」の地名が残り、「小兵衛谷」「隠れ谷」「小兵衛隠れ谷」と呼ばれ、今もその名が残っているそうです。
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祖父祖父堂の案内説明板には、栗住野落城後、光秀は城の関係者を調べるため、栗住野城主(?一族)の足立主人之介以下35人を柏原陣屋へ引き立て、帰順を奨めたが聞き入れないと知るや、八幡の森に謀殺し、様子がおかしいと仔細を尋ねに行った極楽寺の和尚も殺され、首は栗住野川原に晒されたが、その後村人達は密かに亡骸を埋め「首塚」をつくり菩提を弔い、其の冥福を祈ったといわれます。
慶長6年(1601)首塚の傍らに一堂を建て祖父祖父堂と呼ばれてきました。栗住野城は芦田九郎為家が居城した事から「九郎住の城」といい、栗住野と呼ばれる様になったと云われます。

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