黒鼠子佐渡守屋敷 丹波市
丹波市山南町内に仮称を含め中世〜近世城址・居館・陣屋は25件程ありますが、町史・山南町の「文化財のすがた」には太田城(鍋倉城)・玉巻城(久下城)・岩屋城(石龕寺城)・岩尾城(和田城)と和田代官所が載せてあるだけです。篠山川を挟んで太田城の北に在る大河城を後日紹介しますが、此の大河城の登城口には黒鼠子佐渡守屋敷が在りました。
「おおか洗居場」(親水公園!?)から鍋倉城(太田城)を遠望
大河地区北の谷川(八ノ瀬谷)の山中に黒鼠子(こくそうし)明神【国相守大明神】が祀られていて、大河字射場(イバ)の小字名が残る。大河公民館西の狭い地区内の道は稲荷神社の先で石碑や五輪塔残欠を集めた塚の側を曲がった上部に在る・集落最奥の今は無住?の法泉院(日蓮宗)に着きます。鹿防禦フエンスを開閉して山谷川沿いの山道に入り直ぐに山の傾斜面に3~5m幅で突き出した石垣を見ます。
少し広い祠跡程度なので植林用では無く、古墓地跡でも無い様です。あまり深くない小さな谷だが、入口付近は広い。以前は湿気た下草藪中に杉の植林とが拡がる薄暗い谷間に、段差をもった平坦地形が点在し、其の中程?に 石基壇らしい石列と数個の石が寄せ集められサークルに国相守神社旧址の石標柱が建てられていたのが嘘の様。砂防堰堤の上部河原の中に石碑や小祠が遺るだけ。
黒鼠子佐渡守屋敷:国相守神社跡の石碑
黒鼠子(こくそうし)の名は ”国相守・国惣守”とも記され、鎌倉幕府の検察司・横領使の居館が在ったのではところでしょうか?。”丹波志”には天授2年 (永和2 1376)に三宮城主(京都府天田郡)山内越後守憲忠が大河村に住み、荻野佐渡守重定の娘を妻とし、足利将軍に従ったが戦いに敗れ自刃したといわれ、国相守大明神跡地の谷向いには佐渡守の霊を祀ったものか小祠があり 、集落に出る山端には黒鼠子大菩薩と号せられ祀られた薬師堂が建つ。大河地区の山内姓が山内越後守憲忠の末裔かは知らないが・・・
「おおか洗居場」(親水公園!?)から鍋倉城(太田城)を遠望
大河地区北の谷川(八ノ瀬谷)の山中に黒鼠子(こくそうし)明神【国相守大明神】が祀られていて、大河字射場(イバ)の小字名が残る。大河公民館西の狭い地区内の道は稲荷神社の先で石碑や五輪塔残欠を集めた塚の側を曲がった上部に在る・集落最奥の今は無住?の法泉院(日蓮宗)に着きます。鹿防禦フエンスを開閉して山谷川沿いの山道に入り直ぐに山の傾斜面に3~5m幅で突き出した石垣を見ます。
少し広い祠跡程度なので植林用では無く、古墓地跡でも無い様です。あまり深くない小さな谷だが、入口付近は広い。以前は湿気た下草藪中に杉の植林とが拡がる薄暗い谷間に、段差をもった平坦地形が点在し、其の中程?に 石基壇らしい石列と数個の石が寄せ集められサークルに国相守神社旧址の石標柱が建てられていたのが嘘の様。砂防堰堤の上部河原の中に石碑や小祠が遺るだけ。
黒鼠子佐渡守屋敷:国相守神社跡の石碑
黒鼠子(こくそうし)の名は ”国相守・国惣守”とも記され、鎌倉幕府の検察司・横領使の居館が在ったのではところでしょうか?。”丹波志”には天授2年 (永和2 1376)に三宮城主(京都府天田郡)山内越後守憲忠が大河村に住み、荻野佐渡守重定の娘を妻とし、足利将軍に従ったが戦いに敗れ自刃したといわれ、国相守大明神跡地の谷向いには佐渡守の霊を祀ったものか小祠があり 、集落に出る山端には黒鼠子大菩薩と号せられ祀られた薬師堂が建つ。大河地区の山内姓が山内越後守憲忠の末裔かは知らないが・・・


"黒鼠子佐渡守屋敷 丹波市" へのコメントを書く