新保山城 小浜
竹長城とは野木川を隔てた東北方に甍を白く輝かせる龍泉寺の大屋根が見える。その背山から北へ延び上がる尾根上に新保山城(霞美ヶ城)が在りました。新保山城は4等三角点の新保山(287m南郭)〜主郭〜最高所の北郭(293m)へと堀切で区分された三郭部と、主郭から西の尾根にも・幅狭い尾根先には、先の三郭以上に広い幅を持つ平坦地形10数段が在る。此の西郭部は居住性が高く堀切は無いが横堀らしい遺構が下部に有った。
新保山城(霞美ヶ城)主郭の低土塁
新保山城は此の南北(南・主・北)三郭と、北西の大谷区への尾根上・西郭に二分されているようですが、区分とすれば主郭から切岸10m程の大堀切で区分された北郭は、櫓台状曲輪と曲輪北端に土塁を積み、北尾根続には土塁を挟み三重の堀切の堅固な防備で遮断し単郭の城域を、完全に独立させた出曲輪状態。
北郭から見る大堀切と主郭側の高い切岸(約10m)
若狭武田氏の有力被官人で逸見氏と双璧に有った粟屋氏も小浜代官を務め、大永2年(1522)武田元光が後瀬山城を築いて本拠地を移したと同じ頃、宮川保(皇族・貴族・寺社領の荘・庄に対し、保は幕府領)に入った経緯は不詳ですが、粟屋元隆が新保山城を築いた初代城主とされますが、更に時代を遡って”某氏”が居たとも云われます・・・が古文書等資料による史実を知らず・・・。
居住空間?として拡がる西郭の幅広い段曲輪群
武田元光から信豊への継嗣に反対した粟屋元隆は一族の信孝を擁立して叛乱し、信豊の後瀬山城を攻めるが敗れ敗退して没落し、信豊の弟!?信高を宮川保の入れ、その子:信方により永禄年間(1558-70)にわたり縄張りの拡張・改修されたのが現状遺る新保山城で、後瀬山城に次ぐ大規模城郭は本拠城の東方守備の支城として機能したのでしょう。
新保山城(霞美ヶ城)主郭の低土塁
新保山城は此の南北(南・主・北)三郭と、北西の大谷区への尾根上・西郭に二分されているようですが、区分とすれば主郭から切岸10m程の大堀切で区分された北郭は、櫓台状曲輪と曲輪北端に土塁を積み、北尾根続には土塁を挟み三重の堀切の堅固な防備で遮断し単郭の城域を、完全に独立させた出曲輪状態。
北郭から見る大堀切と主郭側の高い切岸(約10m)
若狭武田氏の有力被官人で逸見氏と双璧に有った粟屋氏も小浜代官を務め、大永2年(1522)武田元光が後瀬山城を築いて本拠地を移したと同じ頃、宮川保(皇族・貴族・寺社領の荘・庄に対し、保は幕府領)に入った経緯は不詳ですが、粟屋元隆が新保山城を築いた初代城主とされますが、更に時代を遡って”某氏”が居たとも云われます・・・が古文書等資料による史実を知らず・・・。
居住空間?として拡がる西郭の幅広い段曲輪群
武田元光から信豊への継嗣に反対した粟屋元隆は一族の信孝を擁立して叛乱し、信豊の後瀬山城を攻めるが敗れ敗退して没落し、信豊の弟!?信高を宮川保の入れ、その子:信方により永禄年間(1558-70)にわたり縄張りの拡張・改修されたのが現状遺る新保山城で、後瀬山城に次ぐ大規模城郭は本拠城の東方守備の支城として機能したのでしょう。



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