観音寺城 朝来

雲海に浮かぶ竹田城の画像を、此処数年:此の時期にTVや新聞で見ない事が無い。出掛ける前日もTVのニュース番組でやっていた。しかし現状からは:山として・山城としての素晴らしさを多くの人に知ってもらえる事の功罪に心境は複雑です。日本100名城とか日本三大山城としての単に観光地!!。
   竹田城:南千畳
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何時も利用する寺町通り(竹田駅)側からの林道は下り専用一方通行。上りは北麓の”山城の郷”から花屋敷下の駐車場へだが早朝から既に満車。麓から空待ちの長い車列が続く。NPO法人xxxxは此処をプロポーズ適地に指定したという?。デートスポットか?物見遊山?・・か。当然のように観光地として近い将来:入山料徴収・狭い林道は道路整備後は通行料がいるかも。それも仕方の無いことなのかも・・?。大切な地元の観光資源としてでもよい・・遺構や環境の維持保存・石垣修復にも気をかけて欲しいものです。 
山上駐車場からは花屋敷への登山ルートは通行禁止、南千畳下の山腹から北千畳への大手道へ管理舗装林道を進む。南千畳下方に2‐3条の深く長大な竪堀(太田垣氏の旧竹田城遺構)がホントは林道を割って落ちる。天守台南斜面付近の竪堀等も、繁茂する雑木藪に覆い隠されて気付く人もいない様子。尤もそんな遺構に興味をもつ人は少なく、壮大な石垣、消えかかり薄くなった雲海を一目見たいと・・先を急ぐ様です。
   霧海に覆われた円山川沿いの上に浮かぶ金梨山
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霧に浮かぶ”天空の城”と呼ばれるのはよいが”日本のマチュ・ピチュ”はおかしいと思う。総石垣の城は空中都市ではなく、寧ろ長期間・使役に駆り出され、田に木が生えた話・村中が皆・夜逃げするところもあったとも云う。此処は播磨・丹波に境する重要拠点であり、生野峠を越え播磨方面への戦闘時の前線基地・無慈悲な労役に苦しめられた領民らの地獄の世界。
朝来市観光パンフに竹田城は永享3年?(1431)山名(宗全)持豊により創築され、嘉吉3年(1443)完成して初代城主:太田垣氏を入れたとある!!?。太田垣氏は山名氏が但馬守護となる以前から当地を領した国人領主!!。太田垣通泰が明徳の乱(1391)や応永の乱(1399)の功績により備後と朝来郡守護代を務めた応永6年(1399)に築いた城。現状の石垣の城が「穴太積み石垣」や虎口形態等から、羽柴秀吉の但馬攻めで落城後:赤松氏を入れての改修でしょうが、観音寺山城を含む大規模な竹田城の祖型は太田垣氏により成されていたと考えられます。
   観音寺山城の石積
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林道を分断して東の谷其処へ落ちる大竪堀群や尾根筋・枝尾根筋に遺る小段曲輪等、竹田城の旧態遺構や太田垣氏の存在は高石垣の底に・・・霧海の中に消されていくようです。秀吉の大坂城を観ることが出来ず、家康の大坂城を恰も秀吉築城の大阪城と見るような誤解の無いよう・・・
織田方にいた太田垣氏が最後は毛利に付いた要因となる生野銀山(金の産出も有った!!・・となれば秀吉が黙って見逃す筈もなく)支配の司令塔ともなる竹田城を押さえていたことも・・・・
   観音寺山城主郭と副郭北面
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全国屈指の壮大な石垣積みの竹田城の影に隠れ余り知られない山城が尾根続きの直ぐ北東方の観音寺山にあって、城主や城史は不明ですが竹田城と一体となった(太田垣氏の)山城遺構で、僅かに遺る石積跡は竹田城と同じ穴太積み。其の付近を探索しただけで数条の竪堀を見る。北東方から尾根続きに竹田城へ侵攻してくる敵兵を見張り・抑える出城(砦)で竹田城と同時代・時期の築城と考えられます。
   観音寺山城側から竹田城北千畳の石垣を望む
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観音寺山城は竹田城北千畳からの緩やかな吊り尾根状の先にある最高所に二段程の曲輪がある砦クラスの小城だが、石垣残欠、横掘・土塁から落ちる竪堀・3‐4条の畝状竪掘りがある。竹田小学校からのハイキングコース上にあるが、出会う人もなく竹田城の賑わい!!?からは隔世の感がある。

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