田ステ 柏原町

JR福知山線柏原駅を降りるとロータリー左手(交番向かい)に御所人形風の・ふくよかで愛らしい”田ステ女”の石像が迎えてくれます。 僅か6歳にして「雪の朝 二の字二の字の下駄のあと」の句を読んだ捨女は明治の俳人・正岡子規があげた元禄四俳女の一人で、加賀の千代と並び天下の才媛と謳歌された丹波が生んだ女流俳人です。
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寛永10年(1633)柏原本町の庄屋田季繁は前期柏原藩3代:織田信勝に仕えた人。父に愛され育ち「こんな英才を他家に嫁にやるのは惜しい」と19歳の時、父の後妻の連れ子:季成(スエナリ)を婿養子として結婚。和歌俳句を好む夫と共貞門派の北村季吟・湖春父子や宮川正由等に師事して句や歌を学んでいたが、延宝2年(1674)42歳のとき夫は五男一女を残して死去。
  柏原川の橋の親柱にステ女像と”二の字”と下駄が表現される
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季成の七回忌を済ませた翌年46歳のとき五男一女も独立したので仏門に帰依する事を決意、京に庵を結んで妙融を号し・仏道と歌句の修練に勤めて3年の後:貞享3年(1686)盤珪永琢禅師に帰依して播州網干の天徳山龍門寺に移り住み、寺のかたわらに不徹庵を創建し名を貞閑と改めた。俳名はいよいよ高まり貞門派(松永貞徳を祖とする流派で門下に伊丹の上島鬼貫・伊賀の松尾芭蕉等がいる)貞閑禅尼のもとには弟子も多かった。
   田ステ女の生誕地碑
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田ステ (俳人:田ステ女)の出生を多方は寛永11年とされますが、三和金属工業の創業30周年記念(1977年)に発行された「貞閑禅尼(著者:藤本槌重<姫路市の郷土史家>)」によると、夫君の死に発願し出家後から入寂迄の貞閑禅尼自筆に書簡等・資料により、生涯を詳細な年表やレポートで纏められている。寛永10年(1633)生まれとして・出生に一年の差異がありますが私HPの田ステ女(貞閑禅尼)レポートを再整理しておきます。
 ステ女公園(千日寺跡=正確には道を隔てた民家らしいが?)
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田ステ女関連でリンクしていただいているサンキン<株>(旧:三和金属工業)の;創業者:田季晴氏、丹波地方の産業発展には多大な貢献をされた田艇吉氏もまた 田忠助を先祖とする田家の直系)。
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貞閑禅尼「出家後の俳人田捨女」(藤本槌重)・田艇吉翁寿像再建記念・・・等蔵書を丹波市中央図書館に寄贈のため持参したが郡・市関係以外は受付けない・・と内容チエックも無く断られた。貞閑は出家後兵庫丹波を出ており発行所は東京・大阪の会社の創業記念本、また田艇吉翁の”松藾鶴影”(松鶴を号した)も同様で寄稿者は丹波市外が多く編集・印刷も大阪市?。共に丹波の著名人なのだが!。寄贈本は市内の他図書館や公民館・市内学校図書館で利用出来ないものか?。
 「柏原文化財散歩<昭和45年>」表紙絵の捨女像は編者:林利三郎(神戸新聞丹波総局長):印刷・柏原文華社
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貴重・稀少で本でも価値が解ってもらえなければ意味ない。蔵書はPTAの廃品回収事業に出す事にした。
更に気になるのが館内閲覧のみの誌史等古書の数枚コピーが著作権法違反なら、不特定多数に供する雑誌類新刊は月が代わるまで貸出禁止ではあっても、公共事業としてなら利害に関わる著作権保護に抵触しないのだろうか?との疑問も感じた・・・

 (貞閑禅尼「出家後の俳人 田捨女」<藤本槌重箸> Wikipedia等参照)
  田ステ女生誕の地を示す石碑

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