足利義高(覚山天誉上人)の墓

篠山市宮田の光照寺には先に松平信孝の供養碑【庶長子でなければ(形原)松平氏第3代目篠山藩主となっていたかもしれない!!?】をレポートしたところです。此の供養碑の墓所から20m程・山の斜面の踏み跡を進むと、此の墓所一画の最奥部に一基の卵塔(僧侶の墓塔)が祀られている。
以前は朽ち果てた塔婆横に真新しい塔婆が立てられていたが、其の塔婆も下部が朽ちはじめていた。天譽覚山和尚足利義高の墓碑で、塔婆に…「光照寺開山」・・・とあるが現在の光照寺ではなく、此処の墓所麓:現在建つ最奥の宅地付近に在った廃寺:浄福寺が天譽覚山和尚【足利義高】晩年の隠居寺・・・?。第13代将軍・足利義輝の嫡男義高は世が世であれば第14代将軍?となっていたかも知れない人物です。
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室町幕府の第13代将軍義輝が永禄8年(1565)家臣:三好義継・松永久秀等に殺され、嫡男足利義高(当時3歳)は京都・誓願寺に逃れ、仏門に入り教山善誉上人に師事し一時期八上城主波多野秀治に預けら修行した後・八上城下に誓願寺を創建して覚山天誉上人と称します。
慶長14年 (1609)篠山城が築かれて八上城下の誓願寺も市内魚屋町に移されています。 晩年は廃寺となっていた宮田の浄福寺に隠居し、元和10年(1624)享年61歳で寂滅したとされ、市内誓願寺住職により此処で法要されていますが、次回忌回向の塔婆には「光照寺開山」…ではなく「誓願寺開山」・・・に改められている事でしょう…!!?。

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