瀧山観瀧寺Ⅱ 観瀧寺廃寺跡

丹波市から県道109号の穴裏峠トンネルを抜け福知山市側(府道109号)豊富用水池から榎原川沿いに、和久川沿いのR429号へ下るルートは下夜久野や大江町方面への近道ルートとして良く利用する。R429は生野峠から銀山湖経由で但馬生野に出る生野峠同様に、幅狭く落ち葉で滑りそうな林道然とした榎峠を越える県道4xxx代の車道より難コースの国道だが昔はメインの街道筋(旧丹波・丹後街道)。
  西郭部:主曲輪南の石積みと西Ⅰ曲輪
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一方:R429号:口榎原から榎原谷筋を穴裏峠へ向かうルートはトンネルで丹波市側に抜けられるまでは奥榎原で行止り状態の難所!!。平安時代・伊勢平氏・平維衛(これひら)を祖とする平親盛が長治元年(1104)奥榎原に逃れ、此処に城を築き此の地を開拓した平家落人伝説と榎原の語源を伝える。康和の乱(1101)に源義親(よしちか)を追討した平正盛により伊勢平氏が台頭してきた次期。
 西Ⅰ曲輪の堂宇跡?礎石(礎壇)と西郭主曲輪西面低土塁切岸
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出雲国の義親追討の正盛軍により義親の乱が鎮圧されたのが天仁元年(1108)。平一族の親盛が奥榎原に敗走してきたという!!要因は何なんだったのだろう?。此の奥榎原集落を登路として瀧山観瀧寺Ⅰ 鉦鼓滝 をレポートしています。
不動尊・鉦鼓滝から谷上の観音寺跡へ…。 ♪年を経て絶えしとぞ思ふたはむれは 千瀧の山にひける白糸♪…郡西国11番札所:瀧山観音院観瀧寺御詠歌か?。
   西Ⅱ曲輪:曲輪間に延びる土塁道
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郡は福知山市も元・天田郡、福知山市を挟む西の夜久野/東南の三和町:両天田郡も福知山市に統合され郡名は無くなったが、丹波は氷上(丹波市)・多紀(篠山市)・何鹿(綾部市・一部福知山市)…他、明治期以前の歴史説明・特に荘園・庄園・郷・保やXX領主に注釈なしでの説明が難しくなった…!!?。此れより”沢登り”ルートとするには谷筋は狭く・枝谷や草付きを利用しての逃げ道・巻道ルートが少なく難しいので、観瀧寺廃寺跡へは法道仙人像祠へ戻り、藪漕ぎは不要だが急斜面に取付くと、つづら折れの薄い踏み跡を辿り尾根上に向かう。
   西郭最西端の一文字土塁
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高さ5m前後の切岸・左右に長く延びる曲輪が確認できると、右(東)へ斜上して長い切岸下を並行に延びる帯曲輪に入る。すぐ目前の一段上の曲輪切岸に石積みが認められる。石積み前は虎口受け曲輪か?。正面石積を右寄りにとって入る曲輪が西郭部の主曲輪。右手(東)並行通路は先の帯曲輪に、左(西)へはそのまま主要曲輪の西Ⅰ郭に入る。主要郭西端は低土塁状・土留石材が散在・西Ⅰ郭も中央付近に方形の礎石というより礎壇跡程に石材が残る。
   東郭最高所の大曲輪に入る大手!?の石段跡
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一帯を西郭としたのは、東西に長く延びる(150-200mに及ぶ城郭としては!?大規模縄張り)曲輪群は二重の空堀(箱堀と堀切)で東西曲輪群を二分しており、形態が異なる。始めに登りついた西郭部は西主要郭を中央にして周辺曲輪が守備する輪郭式城郭の形態。東郭部は堀切から東尾根伝いに高い段差で曲輪を積む梯郭式城郭様。最東端は此処一帯で最大規模の曲輪(実態は切岸5m上に櫓台か指揮台!!??、主要堂宇の一つか?)で、西面入口部には5壇程の石段跡・東端部には大寺院の伽藍跡礎石らしい石材も遺る。
 東郭最東末端の櫓台?・堂宇跡?から見下ろす東主曲輪
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観瀧寺説明板(平成3年);によると弘法大師(空海)の巡錫も伝え、寺運最盛時には山上に本坊・尾崎坊・長尾坊等七堂伽藍の堂宇が建ち並び、山麓には尼寺もあったが天正13年(1585)兵火により寺坊は盡く焼亡したが、中興の祖成遍大徳上人により、谷の奥(観音谷!?)に堂宇を建て遷され、慶長年中(1596-1615)再び現在の地?に移された。嘉永元年(18489)雷難により焼失・安政3年?(1856)にも火災によるものか再建されている…とある。歴代住職の卵塔等墓石が発見されていないようですが神道にいう奥津城のような場所があるのかも?。例えば?鳥居しかない榎原神社(所在:榎原村城山)背後の丘陵上はどうだろう…?。規模の大きな古寺院跡だが市埋蔵文化財としては空白地帯。寺院跡・城址?としても此れだけの遺構を福知山市の文化財・史跡を埋もれさせるには惜しいですね。

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