花ノ宮 多可町八千代区

北播磨の多可町八千代区野間は天文年間(1532-55)赤松一族の在田筑前守村長が、河内城(加西市)から野間に本拠を移し、野間川を挟んで居館の光竜寺山城・其の詰城の野間山城、二つに城の南口を守備する花の宮砦片瀬砦等【総称して野間城と呼ばれる】城砦群を築いている。
   大歳神社(加西市牛居 牛居構とされるが他にも一箇所あり!!)
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先のブログ野間構を参照していただきたいが、花ノ宮(野間川右岸)に牛居城主中村牛居之祐吉早の碑が立つ(碑には…牛居之祐…だが地元では…牛之助…?)。嘉吉の乱(1441)に没落した赤松家再興のため吉野南朝に討入り、神璽の鏡を奪い返した赤松旧臣遺児の一中村小四郎助直【この功により旧領回復した】金鑵城主の末・中村六郎友之の嫡男が祖、善防山城の城代家老を務めた …城史等を省略…
   花ノ宮の牛居之祐吉早碑
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天正6年(1578)秀吉の播磨攻め・三木合戦を期に!?城主:牛居之祐吉早は嫡男を牛居城に残し花の宮に転居?し、慶長元年(1596)此処に入寂(?僧門に居たか不詳)。嫡男は三木に籠城・開城後帰農し前田姓(母方の姓!?)を名乗っている。城主牛居之祐吉早側室:豊ノ前は身重の身体で子を連れ
  牛居之祐側室:豊ノ前墓所
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出処は但馬竹田と云うが?山南町奥野々の地に留まり・此の地で再婚し永住・元和元年(1615)歿している。竹田は但馬ではなく丹波竹田へ帰る途中であったか!?。貝野城・段ノ城にみる鉱山開発等:在田氏・山名氏との関係からも、但馬なら野間等から生野街道を目指すのが自然!! 、まして黒井城・篠山城は信長方との戦闘中!!
   山南町奥野々・中村株の祖 禅昌院xxx・久昌院xxxを祀る
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奥野々中村家では牛居之祐ではなく、奥方【久昌院豊山xx大姉】と再婚相手の(姓不詳)利兵衛【禅昌院xx居士】を祖として祀る。離散した妻子が其後再開することはなかった様ですが、野間と奥野々の中村株による交流は続けられていると聞く。
(一部 中村牛居之祐吉早 -ある武将の謎を追って- 前田重寛 自費出版を参照)
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