岩屋山「石龕寺城」Ⅱ 丹波市山南町

初冬寂景:石龕寺に於いては:「太平記」足利氏所縁の石龕寺城等について…  
岩屋山「石龕寺城」Ⅰでは天正5年(1577)?【天正7年(1579)5月三木城包囲中の丹羽長秀等援軍により久下氏の玉巻城ともに落城した岩屋城(三輪城)最後の城主広沢綱忠のときの兵火によるか?】明智光秀「丹波攻め」に唯一遺った南大門(仁王門):村上天皇(平安時代:在位:天暦-康保 946-967)の帰依を得て寄進され
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寺宝となっている「小野道風書の扁額」・鎌倉時代仏師:肥後法橋定慶作の金剛力士像(国宝)、丹波栗のルーツについて記したが、岩屋山「石龕寺城」Ⅱで、岩屋山石龕寺(奥の院)の興りである用明天皇の2年(587)大和朝廷の最高官:物部守屋と対立した崇仏派の蘇我馬子・聖徳太子ら聖徳太子等が勝利したが際…の聖徳太子兜の毘沙門天像伝承と、
 町石(表参道岩屋道)
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修験の山岳寺院として隆盛したこと、岩屋山「石龕寺城」Ⅲでは:いよいよ山岳寺院が城砦化され「石龕寺城」となり城砦となった。建武の乱(建武3年後鳥羽天皇方に敗れ京を退いた)・桃井の合戦正平6年(観応2年 1351)足利氏の支族:桃井直常(ただつね)・尊氏の弟直義(ただよし)と対立し南・北朝で争い敗れた…と二度も足利尊氏・義詮父子が久下氏を頼って丹波に遁れた際にも岩屋山石龕寺(奥の院)の僧坊を城郭化したものとして記述を進めたい…
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石龕寺縁起:用明天皇の2年(587)大和朝廷の最高官:物部守屋と対立した崇仏派の蘇我馬子・聖徳太子らが勝利した際:太子兜の昆沙門像が何処かに飛び去り、其の像を探索していたところ篠山市と播磨境の中口山ーササバー机峠(ササバは祭祈場の意・机は学問所の意あり)まで来たとき、石戸山(ふるさと兵庫の50山・100山)付近が光り輝いているのを見て、
 焼尾神社・仁治2年(1241)創建:丹波市内最古「石龕寺」の鎮守
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頭光嶽の直ぐ下方の窟に「毘沙門像」を見つけることが出来た。大呂峠を北へ越え首切り地蔵尊(丹波市山南町)からJR谷川駅ー金屋ー…粗直線的に頭光嶽に至り、此処に太子が深く帰依される自彫の守護神:毘沙門天王を本尊として開基を伝えるのが古刹:岩屋山石龕寺(現:石龕寺奥の院)。
 岩屋谷川に流れ出る大槽谷
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現:石龕寺本坊・客殿前(参道を挟んで向い)の”大槽(おおぶね)谷の水”は名水・霊水として持ち帰る人もあるようだが、聖徳太子がこの水で毘沙門天像を洗い、水面が絶えず黄金に輝いていたと…。大糟谷の奥の院参道沿いには旺盛期の削平段(僧坊跡)が点在しており、土師器等各年代の土器の破片が出土し、土留め石積・茶の木や竹林もある。

いよいよ大糟谷の源頭:旧岩屋山石龕寺(奥の院)へ…暫く休息してから大糟谷沿いの参道を進みます…
足利氏逗留時に岩屋城(三輪城)が存在していたとも思えず、奥の院:石龕寺城(将軍屋敷跡が主郭か!?)へは修験の北谷からも到達出来るので、逃げの?詰城的存在として背後の頭光嶽城が砦規模で在ったと推測…。
コロナ禍で明け暮れた昨年の不安が払拭され、平穏な新年を迎え健やかで明るい一年となりますよう。

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