頭光嶽城(仮称) 丹波市

正平6年(観応2年 1351)足利尊氏が京を逐われ西国に下る際、栗作郷(丹波市山南町久下)の久下氏を頼り丹波石龕寺に遁れ、嫡男:義詮を此処に留めた将軍屋敷跡や、奥の院背後の丘陵上にある頭光獄(聖徳太子兜の毘沙門天像発見と石龕寺開創に起因する山)直下にある石龕寺城(奥の院)…南北朝の一時期
 奥の院への北谷参道(入山危険!!)
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(足利義詮が石龕寺に拠った際(現:奥の院の将軍屋敷跡に拠った二ヶ月余り!?)は現:毘沙門堂や境内社の焼尾神社(仁治2年<1241創建>)周辺や、北谷道(行者道か?直接:将軍屋敷横に到達するが谷筋崩壊・谷筋から左岸斜面に取付くが激急斜面諸処に石積み堂宇跡?,参道土留め石列を見る。奥の院登山口にも奥の院周囲の僧堂を城塞化したものか、
 岩屋山(岩屋城)への直上コースから奥の院眺望(中央部の白点!)
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周辺に砦を築き城塞としたものと考え、考察不足はありますが下記に一連の石龕寺関連ブログに掲載しています。初冬寂景:石龕寺 岩屋山「石龕寺城」Ⅰ 岩屋山「石龕寺城」Ⅱ 岩屋山「石龕寺城」Ⅲ 岩屋山「石龕寺城」Ⅳ 兵庫県の城として知られる!?石龕寺城(奥の院)とは別に石龕寺城(三輪城・岩屋城)・頭光嶽城・寺坂峠の城砦は…中世:赤井・荻野氏が氷上郡内に勢力を張り、
 奥の院直下の堂宇跡石垣!?(諸処に土留めが崩れた参道石積は残る)
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高見城の前身:佐野城は仁木頼章が(足利一族とはいえ在城地の沼貫(ぬぬぎ)庄領主ではなかった筈?)に嘉暦2年(1327)築いたとされるが、仁木頼章の丹波守護職は建武3(1336-)だが康永2年(1343-)には山名時氏が丹波守護…観応2年(1351)には尊氏が足利直義・山名時氏と戦い敗走して石龕寺に入ったので、
 頭光嶽から岩屋山(岩屋城)・石戸山(石戸山城<仮称>)
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同年(観応2年)再び頼章が丹波守護となったのは尊氏が九州から京へ西上してきた後のこと。とはいえ足利一族の仁木頼章が久下・荻野・赤井氏等と足利義詮を護って石龕寺に留まったのは石龕寺城(奥ノ院)で、岩屋山の岩屋城(三輪城)とも思えない…仁木氏の旧佐野城(氷上町)が再建されたのは暦応2年(1339)で城名からも柏原側の現:高見城ではないが?。
 頭光嶽城<仮称>北面下部の曲輪(左斜面に竪堀・右手上に主郭部)
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高見城は赤井氏の持城として戦国時代には黒井城支城・更には西への尾根続きに石戸山城(仮称)・岩屋城(三輪城・石龕寺城?)・頭光嶽城(<仮称>奥の院からの詰城・岩屋城の南郭としてか?)や、久下氏居館の金屋に下る寺坂峠の奥ノ院南口(表門?)の寺坂峠城(仮称)改修されたものか。
 頭光嶽城主郭東斜面に竪堀二条
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何れも:久下氏本拠の玉巻城が石積改修が許されていない状況から久下氏ではなく赤井・荻野氏配下の部将による高見城砦群か!?。石龕寺城(奥の院)の鐘楼側から続く急斜面を2-300m程登ると送電線鉄塔を乗せる頭光嶽(439m)山頂。山上からは鉄塔越の北尾根先の鉱山跡崖上に岩屋城(三輪城)と
  岩屋城(三輪城)への北尾根筋にある土橋付き堀切
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東へ延びる尾根上に石戸山(石戸山城)を望む。鉱山跡で分断される岩屋城(三輪城)との間には、城域を分けるかのような”土橋付堀切”が二本ある。頭光嶽城(仮称)は鉄塔の北下部に二段程の小曲輪と東面にも削平段があるが、此の曲輪から主郭東斜面に掛けて3本ばかり竪堀が落ちる。
 岩屋鉱山金谷側鉱石搬出口?の残置車輌と右端に鉱口(爆破避難用?) 近く水場有り
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主郭の南側に広い2-3段の曲輪があり主郭部南端は自然地形ながら岩場を抱く切岸状。深いU字状の竪堀が一本落ちる。此れよりは比較的緩斜面の尾根上に間隔は空くが削平段が現われ、浅い堀切上の瘤と見えるのが壇土塁?と小曲輪が一つ。5-60m程下方には石龕寺奥の院に通じる寺坂道の(廃道)寺坂峠が見える。

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