倉崎城(仮称) 丹波市市島町
R175「八日市」交差点を直進し塩津峠を福知山市へ越えるルートも、道路付替・拡張工事計画前から福知山市六人部・綾部市方面に向かうのに右寄りに進む旧国道(街道筋)もよく利用していた。先に寄った高坂城(館城!)も街道筋の西山酒造場の先で狭い地区道に入ったが、酒造場南手前小峠?上の分岐点に
県道(倉崎橋南詰)からの倉崎不動山全景以前は「活眼不動尊」案内標識があって倉崎城(仮称)へは竹田川に架かる倉崎橋を渡った正面の集落奥に祀られる活眼不動尊へは、目を患っていた母を連れて参拝に行ったことがあった。このルートも今では市島支所から三っ塚史跡公園下を前木戸で県道708号に合流し、福知山市に入った六人部で
活眼不動開眼堂側の歴代住職卵塔群:大土塁向こうは堀切R9に合流し綾部方面に向かう車道で、ダンプ等大型車は殆ど走っていなかった頃からよく利用していた。竹田川沿いに走るルートで友政城のある友政の500mほど手前の山際に倉崎集落がある。谷川沿い坂道の途中から階段・手摺のある参道があり登り口に「活眼不動尊」微笑山霊山寺の標板が立つ。
卵塔群・メガネ井戸側は大土塁(主郭か櫓台だったか?)に繋がる土塁道憤怒の像なら円空仏:微笑仏なら!!木食上人を思い出すが、珍しい山号は経典や経文が引用されたものか?。参道を上がる倉崎不動山の山上に祀られる石造”活眼(いきめ)不動尊”は寛永年代(1624-44)当地領主(氷上町の由良荘の領主:北由良に居館を置く別所豊後守吉治が娘の眼病平癒を祈願して香良の浅山不動尊と共に開眼堂…等を勧進したと云われる。
大土塁背後の尾根筋を遮断する大堀切【吉治は家康の死後・仮病で参勤交代を怠り寛永5年(1628)2月28日(丹波志に寛永4年12月29日)改易・所領を没収されている】霊山寺友政城とは所縁の寺と云われ:城麓にあった。友政城は天正6年明智光春(光秀の弟)の奇略により無血開城したと云う…が其の後の兵火なり失火!?で消亡。三度目の堂宇が宝永6年(1709)現在地に再建されたという。
大堀切の西斜面に数条の畝状竪堀(3ー4本!)従って水を湛えるメガネ井戸・20数基が並ぶ霊山寺歴代住職の卵塔が其の歴史を伝えてはいるが、現状:不動山上部周囲(南北70m・東西80m程)の範囲に残る堀切・竪堀・畝状竪堀・土塁・曲輪等が散見出来るが、不動山頂部の城郭遺構は削平・改変(壊変)著しいものと感じた。とりわけの参拝道入口側直ぐの堀切は幅6m(尾根上で10m程)で、
メガネ井戸側の土塁西下段:帯曲輪南端の塹壕?穴主郭・櫓台があったか?大土塁との切岸も6-7mと高い。メガネ井戸の外角を土塁が廻り、一段高い小曲輪跡?の上に此の大土塁があるが、不動尊側の土塁(崖下)には歴代住職の卵塔が並ぶ。東側角切岸下から土塁側ー堀切へ廻れるが大土塁の幅が5m程と狭すぎるので、櫓台なり主曲輪が墓石群の側まで(20x10-12m程規模)は有ったのでは!?と思われる。
城域北東端(開眼堂下)の街道監視及び虎口受け曲輪か?城域南背後を大堀切・畝状竪堀で遮断:防御、東面は高い切岸で、西面は2-3段の曲輪・帯曲輪と曲輪南端は侵入を塞ぎ・移動を押さえる大穴(池?・塹壕?)が、東北端の一段低い曲輪には縁日に幟旗を立てる為か!?固定用石柱が設けられているが、当初の堀底道か参詣道?の虎口受け曲輪!?。竹田川沿いに氷上(丹波市)の黒井城東郡境の天田(福知山市)・何鹿(綾部市)を結ぶ街道監視の友政城城塞群の一つとして
城域北西の三段曲輪:最下は南西端塹壕?からの帯曲輪友政城の西口を押さえる倉崎城は丘陵北尾根先端部の小岡山上部全体を城域とする館城だったのか?…築城時期・城主等城史一切不明。別所吉治については別所居館・十六丁畷の治水事業・意春(三木:別所長治菩提寺に住職)と経塚の由来、綾部陣屋・高座神社「蟻の宮」・「蚕の宮」…等を参照願います。
県道(倉崎橋南詰)からの倉崎不動山全景以前は「活眼不動尊」案内標識があって倉崎城(仮称)へは竹田川に架かる倉崎橋を渡った正面の集落奥に祀られる活眼不動尊へは、目を患っていた母を連れて参拝に行ったことがあった。このルートも今では市島支所から三っ塚史跡公園下を前木戸で県道708号に合流し、福知山市に入った六人部で
活眼不動開眼堂側の歴代住職卵塔群:大土塁向こうは堀切R9に合流し綾部方面に向かう車道で、ダンプ等大型車は殆ど走っていなかった頃からよく利用していた。竹田川沿いに走るルートで友政城のある友政の500mほど手前の山際に倉崎集落がある。谷川沿い坂道の途中から階段・手摺のある参道があり登り口に「活眼不動尊」微笑山霊山寺の標板が立つ。
卵塔群・メガネ井戸側は大土塁(主郭か櫓台だったか?)に繋がる土塁道憤怒の像なら円空仏:微笑仏なら!!木食上人を思い出すが、珍しい山号は経典や経文が引用されたものか?。参道を上がる倉崎不動山の山上に祀られる石造”活眼(いきめ)不動尊”は寛永年代(1624-44)当地領主(氷上町の由良荘の領主:北由良に居館を置く別所豊後守吉治が娘の眼病平癒を祈願して香良の浅山不動尊と共に開眼堂…等を勧進したと云われる。
大土塁背後の尾根筋を遮断する大堀切【吉治は家康の死後・仮病で参勤交代を怠り寛永5年(1628)2月28日(丹波志に寛永4年12月29日)改易・所領を没収されている】霊山寺友政城とは所縁の寺と云われ:城麓にあった。友政城は天正6年明智光春(光秀の弟)の奇略により無血開城したと云う…が其の後の兵火なり失火!?で消亡。三度目の堂宇が宝永6年(1709)現在地に再建されたという。
大堀切の西斜面に数条の畝状竪堀(3ー4本!)従って水を湛えるメガネ井戸・20数基が並ぶ霊山寺歴代住職の卵塔が其の歴史を伝えてはいるが、現状:不動山上部周囲(南北70m・東西80m程)の範囲に残る堀切・竪堀・畝状竪堀・土塁・曲輪等が散見出来るが、不動山頂部の城郭遺構は削平・改変(壊変)著しいものと感じた。とりわけの参拝道入口側直ぐの堀切は幅6m(尾根上で10m程)で、
メガネ井戸側の土塁西下段:帯曲輪南端の塹壕?穴主郭・櫓台があったか?大土塁との切岸も6-7mと高い。メガネ井戸の外角を土塁が廻り、一段高い小曲輪跡?の上に此の大土塁があるが、不動尊側の土塁(崖下)には歴代住職の卵塔が並ぶ。東側角切岸下から土塁側ー堀切へ廻れるが大土塁の幅が5m程と狭すぎるので、櫓台なり主曲輪が墓石群の側まで(20x10-12m程規模)は有ったのでは!?と思われる。
城域北東端(開眼堂下)の街道監視及び虎口受け曲輪か?城域南背後を大堀切・畝状竪堀で遮断:防御、東面は高い切岸で、西面は2-3段の曲輪・帯曲輪と曲輪南端は侵入を塞ぎ・移動を押さえる大穴(池?・塹壕?)が、東北端の一段低い曲輪には縁日に幟旗を立てる為か!?固定用石柱が設けられているが、当初の堀底道か参詣道?の虎口受け曲輪!?。竹田川沿いに氷上(丹波市)の黒井城東郡境の天田(福知山市)・何鹿(綾部市)を結ぶ街道監視の友政城城塞群の一つとして
城域北西の三段曲輪:最下は南西端塹壕?からの帯曲輪友政城の西口を押さえる倉崎城は丘陵北尾根先端部の小岡山上部全体を城域とする館城だったのか?…築城時期・城主等城史一切不明。別所吉治については別所居館・十六丁畷の治水事業・意春(三木:別所長治菩提寺に住職)と経塚の由来、綾部陣屋・高座神社「蟻の宮」・「蚕の宮」…等を参照願います。
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